昭和五十七年九月一日 朝の御理解


 御理解第三十二節
女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、お      かげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。


私は、今朝方からお夢を頂いておったが『フグの料理を頂いておる。しかも、様々な頂 き方、はあ、こんな頂き方があったんだろうかと思いながら頂いておる』というお夢であった。
私は、そのお夢を頂いてから思いましたのですけれども、教祖様ていう方はそれこそ一 つ間違えば命にも関わるというような、フグという魚は怖い魚であるけれども、そこに食して良いところ悪いところ、水洗いを完璧にすれば、これは、ま、天下一品の珍味といわれる程しの味わいのものである。
金光教の信心は、有難く頂けば、も、天下一品、いわゆる前代未聞開闢以来といわれる そういう素晴らしい御信心である事を教祖の神様は、御自身が実験実証なさって金光教が生れ、教えが生れておると思うのです。
ああいう、例えば一つ間違えば命に関わるといったような魚をです、ま、いつの時代に 誰が、ま、食べ始めたのかわかりませんけれどもね、沢山の犠牲者も、ま、今日でも必ずフグのシーズンになりますとね、フグの中毒を起こして命を落とす人がいくらもありますが、それを、あれが食されるんだと、こういう猛毒を持っておるものにまた取り組んでですね、その味の素晴らしさというか、を、いよいよ極めて、ま、今日ではフグの料理といえば最高の高級料理ね、しかも、あの日田に有名なフグ料理店がありますが、ここなんかは肝を食べさせますですね。勿論、あの白子は、ま、それこそ天下一品の珍味の中の珍味ですけれども、それと、も、ほとんど見た目では分からないような真子を食べたら、もう命を人間の命を取る程しの猛毒があるんですね。真子と白子は見分けがつかん、素人では、で、白子はまた、ま、こんな美味しいものはないというふうに美味しい。
教祖の神様は、その辺のところを御自身が実験実証なさってね、こういう天下な珍味と 思われるような味の信心を金光教として、今日残して頂いておるんです。けれども、それをいうならば教祖の神様が実証なさったものを、また私共が、たとえば私共お道の信奉者は教祖金光大神の様々な教えがありますが、その教えを本当に実験して実証してね、教祖が嘘をおしゃってないんだという事を、私は証を立てていく責任があると思うんです。ねそれを、私は、ま、合楽教会では御理念に基づく生き方というものがね、何々は合楽理 念をもってする外なしという頂き方を、ま、極めてまいっておるわけでありますが、考えてみると大変な事。これを食べたら、いうなら、ま、命にかかるような事があるかもしれんという事でも、教祖様が良いと仰せられ、教祖様がおかげになると仰せられるから頂いてきたんですね。
そして、いよいよもって教祖の神様のみ教えがこのようにも尊い、味わいのあるいうな ら天下一品の味わいのあるみ教えであり、もう過去数十年にわたって様々な宗教がうまれたがね、その宗教者達がもう及びもつかなかった、思いもしなかった、いわば合楽でいわれる人間が人間らしゅう生きながら天地の徳を受けていけれるという手立てをね教祖は説かれた。ですから、それをやはり頂かなければ味はわからんなり。おかげの味じゃない、信心の味、教えの味である、ね。
そりゃまあ考えてみると、そりゃ本当に思い切った度胸がなからなけらば出来る事では ないし、たとえば今でもそうですけれども、その当時はいよいよいうなら金神様といえば祟り障りの神様。知って向かえば命を取り、知らずに向こうても目をとるといわれる程しの、ま、いうなら人間から敬遠されなさった神様をですね、拝み抜いておいでられた。目を取ったり、命を取ったりする程しの働きをもっておられる神様であるから、またこちらが実意をもって実意丁寧神信心によればね、目を下さる事も命を下さる事も出来る神様に違いない。
ま、学問的にもね、いうならばこうしてこうすればこういう祟りがあると言うように、 それがただ迷信とは思われないね。日柄方位なんかも、やっぱ第一と思いましたでしょうね。けれども、そこに実意をもっておすがりしてゆけばね、ま、たとえば、ま、殆どの宗教が必ずこうしてはならない、ああしてはならない、あれを食べてはこれを飲んではいけんといったような、ま、厳しい、ま、戒律のようなものがございますけれども、金光教には人間が人間らしう生きていく為のもうそれこそ天地の大道をね、喝破出来るような教えを説かれたんです。
始めの間は、やっぱり御自身も七墓きずくような難儀な事が続いてまいりましたけれど も、それに屈せることなくね、そこんところを実意丁寧神信心をもって、その悪神邪神と言われてきた、思われておった神様へ向かって進まれた。
人間氏子、凡夫の事でございますから相分からず、どこにお粗末ご無礼があるやらわか りませんそこんところは平に平にお許し下されという姿勢をもって、そして、今までかって、いわゆる前人未到と申しましょうかね。かっての、ま、宗教者が通ったことのない道をお通りになって、この道はこのようにも味わいのある、こんなにも広い素晴らしい、しかもね、人間が人間らしう営みを続けながらね、天地金乃神と一心とか同根といわれるところまでも進んでゆけれる道。
この方の事を生神生神というが、みんなもその通りにおかげが受けられる。この方が、 おかげの受け始めと教えられておられるのですから、私共もそういう道を歩いて、いうならば生神を、これが生神の心の状態、境地であろうかという心を境地を開いていくことの精進をしていかなければならんのです。これも、大変な勇気とまた度胸がなからなきゃ出来る事ではなかったろと思いますよね。それを皆が信じ、それを言うてきた。
知って向かえば命を取られる、知らずに向うても目を取るといわれる程しの、いわば金 神様のああしちゃならんこうしちゃならんというところも、いわゆる実意丁寧をもってその神様に向かっておいでられた。例えば、家を建てる出も、なら、ここは鬼門であるとかいろいろな、その、ま、学問の上にちゃんとそれが出てきて現われておる。そういう事でも、こちらが実意をもってとおしゃっておられる。
人の、例えば門口に物を一つ置かせて頂くでも黙って置くような事をするから、誰がこ げなところに邪魔になるところに置いとるだろうかといって、ま、蹴散らかされるような事になるけれども、一言お断りをして、ちょっと済みませんがこの荷物をここに置かせて下さいといって置いて行けば、ま、夕方になっても取りにこんと、ま、その家の人がそれを家の中に入れてやるようなもんだと、教祖は教えておられます。ね。
家を建てるでも、いうならばねこういうふうに建てるがいわば使い勝手がよろしいので こういうふうに、ここにカマドをここに井戸をというふうにお断りをしてすればいいと仰せられています。
これは、例えば日柄方位とか、そういう普請作事の時の事だけではありません。総ての 事がね、その生き方を身に付けていく。それを、ま、今日の御理解でいきますと有難く頂く心とね、天地を拝む心なんですね。野菜一本抜かせて頂くでも天地を拝む心、蒔かせて頂くでも天地を拝む心をもって蒔かしてもらえ、それを収獲さしてもらう。それを煮て食する時には、いよいよもって神様頂きますという心あらば当たる事なしとおしゃる。当たり障りがある筈がないというような道を開き、教えて下さったのでございます。
ところが、そういういうなら素晴らしい道を、お互いが素晴らしい道に行き得ずして終 っておる金光教の信者がどの位多いかわかりません。折角、教祖の神様がそういう、ま、大胆といえば大胆、今までいわれてきた事を一掃してね、そして人間が人間らしゅう生きて行け、幸福になっていけれる、神様にまでも進んで行けれる道を教え示して下さってあるのですから、私共も、はあ、も、フグ怖い食べん食べんといってね、食べず仕舞で終ってはね、本当に相済まん事だと思います。ね。
ここを、こういう頂き方がある頂いてみるとそれこそ天下一品の、ま、珍味。これより 、こげなおいしいものはないといわれるような、いうなら食べ方を覚えさしてもろうてね、折角の頂いておる御信心をいわゆる価値のあるものとして、私は自分の信心の上に、家の上にね、治めていかなければならんと思います。
昨日は、月末御礼信話会で皆さんの発表を聞かして頂きましたが、中原修行生が発表し ておりましたが、たとえばお道の教師にでも志すという、いうならばお取次者としての取次の、ま、テクニックといったようなものを体得する前に、まず自分自身が助かる事以外にはないね。合楽理念をマスターして、こういう時にはこういう生き方がありますよ、こうですよと教えてあげれるというのじゃなくてね、自分自身が助かるという事。
いよいよ合楽理念の実験実証をもって、自分自身が助かる以外にない。今月もこういう ような事に精進を置いて、ま、一つ月間の信心修行させて頂いたというような発表をしておりましたが、まさにその通りです。先ずは、自分自身が、なら、フグの料理をし習うてね、ここは毒になる、ここは美味しいという味を自分が覚えてね、人にも勧めるでなからなければ、ただそういう道を知っておるというだけでね、では、覚えただけではいけないんだと、やはり自分の血肉にするには、それを頂かなければ実験実証していかなければでけんといったような意味のお話でした。ね、
美味しいもんだ、という事を聞いただけではいけません。ただ、耳が聞こえただけでは いけませんね。本当に教祖金光大神が教えて下さる、いわゆる信心をすれば誰でも神徳が受けられるとおしゃるような神徳を受けていく信心、力が頂けれる信心。
人間の幸福の条件というものは、ただ自分ががめつう働いただけで足ろうものではない 。第一、自分自身が助かる、心が助からなければ、その助かりに応じていうなら幸福の条件が足ろうてくるという、おかげでなからなければということです。
教祖の神様が、もうそれこそ前人未到の道を開かれました。それを合楽では、また、本 当だろうかというわけでね、ここにも大変な度胸がいったわけですよね、考えてみると。教祖様は、ああおしゃるけれども本当だろうかとそれでそれを徹底して行じ切る人がなかった。合楽理念によっても、確かに間違いなく教祖の神様が嘘をおしゃってないという実証を、ま、しておるわけですから、なら、ここに御縁を頂く皆さんもですね、確かにそうだというものを頂かれなければ、成程前人未到であったろうというようなところをです、こ、たどらしてもらう。
そして、成程開闢以来ね、初めてこういう人間が人間らしう生きながら真実助かってい ける、おかげの頂いていけれるね、いうならば教えを頂くのですからそれをただ聞いただけでなく、それを自分の血肉にしていく為には実験してでなきゃいけません。
折角の、いうならばまあ命懸けで教祖様が、こんな有難い道を開いてくださったのです からね、それをまた私が命懸けで実験実証して、も、教祖の神様のおしゃる事にはこんなにも間違いない。本当にそうなんだという実証をしておるのが、今の合楽だと思うのです。ですからね、皆さんもそれをですね、あの実験実証しておいでなければならない。どのような場合であっても、あれを頂いたらいかん、これを飲んじゃいけんじゃないね。
いわゆる、天地を拝む心、または煮て食する時に神様頂きますという心、頂きますばっ かりいって頂かんなら血肉にならんですね。頂いてみて、はあ、とても、こんなに、命を取られるような猛毒がある。例えば、フグでも頂きようでは、こんな素晴らしい味わいあるもんだという事を分からなければ、いつまでも食べず嫌いであっては勿体ないね。いよいよ、いわゆる頂きますという心あらば、それを合楽ではすべての事に「御」の字をつけて頂けば、とこういうふうに申します。
ただ頂くじゃいかん、御の字とという事は、私は天地を拝むという事ね。次には、頂き ますね、煮て食する時に頂く、すべての事柄にいわゆる御の字がつけられる。いよいよ内容、普通一般ではね、例えば、な、日柄方位の事でもそうです。この日はいかん、この方位は悪いと例えばいわれるような事であっても、こちらがそれに御の字を付けて頂きますという心あらば障る事、いや障るどころかそこに人間が自由無垢な生活、自由無垢なおかげの世界にも入っていけるという事にもなりますね。                                                   どうぞ